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マスコミによってイメージされる患者像

最近立て続けに有名人ががんで亡くなられた、とのニュースが流れた。
マスコミはこぞって、いかに「壮絶」であったかに焦点をあてワイドショーなどで報じられている。
「余命」とか「モルヒネ」など、インパクトにある言葉を巧みに使用し、悲劇の主人公に仕立てようとしている感がある。
その結果、がんであること=壮絶な最期というイメージを植え付けかねないことが危惧されるわけである。
推測だが、本当にがんとともに生きている方の側に普段関わらない人種が作成しているのだろう。
先日はとある記事がSNSで流れてきた。「告知をしたから死期を早めた」というものだった。

がん患者の抱える様々な苦痛

がん患者は多くの苦痛に悩む。
どこかが痛むといった体の痛みだけではないのだ。不安や抑うつ気分、不眠といった精神的な苦痛を伴うことも多い。
最近の研究では、病気のことを考えてなってしまう不安だけではなく、がんのストレスが脳に作用し、気分を落ち込ませてしまうことも分かってきた。
また、仕事をされている方々や家庭を持っている方々も多く、お金や仕事・家庭の悩みをかかえる事も多い。
また、がんを患うことによって、今まで当たり前のように出来た事が一つ一つ出来なくなっていく。そういう中で、自分の存在意義が見出せなくなる苦痛というものがある。
これをスピリチュアルペインと呼ぶ。適した日本語訳はあまりないようだ。
それら多くの痛みを同時に抱えてしまう。もし、医療者がそれらの苦痛に焦点を当てなければ、患者・家族は「壮絶」な結果になってしまうだろう。
今ではそのようなことがないように、がんと診断されたときからアプローチする訓練を多くの医療者が受けており、以前よりは配慮が出来るようになってきていると思われるが、まだまだ不十分と言わざるを得ない。

医師を選ぶのは患者、家族自身であってほしい

誰しもが告知を受けると気持が落ち込むのは予測できるだろう。
実際、深い悲しみに陥り、なぜ自分だけと怒りを感じ、様々な治療方法を模索し、治療の中でどうにもならないことを知り、そして受容していく。時間やそれらのタイミングは個々でまったく異なる。
我々は、その揺れ動く気持ちに寄り添いながら、その中で出来ることはないか、到達可能な目標がないかを一緒に考えていく。決して独りにはしない。
従って、我々の理想とする像は、いつでも気軽に相談できる雰囲気、であると思う。
がんでないときであっても、医師に色々と相談することは勇気がいる行為だと思う。
それががんに罹患し、プライベートな悩みや家族・仕事のことなども相談するとなると、それは患者・家族にとって、相談することすらも負担になりかねない。
なんとか相談したいと思って、声をかけたときに、もし少しでも嫌な顔をされたら、もう二度と相談する気が起きず、悩ましい問題はより複雑化していくだろう。
適切ながん医療を受けられない方々をがん難民と呼ぶことがあるが、医療を受けていても、様々な苦痛に悩みながら相談できない方々も難民であるのかもしれない。
人生のもっとも大事な時期を過ごすためにも是非患者・家族側が医師を選んで欲しいと思う。苦痛に関心がない、相談に乗ってくれない、質問すると嫌な顔をする、ひたすら新しい抗癌剤を勧めてくる、抗癌剤治療以外のときには病室に来てくれない、などが危険信号だろう。

「告知」の是非

がん末期患者への告知は、それら様々な対応をしながら行われるべきである。ただ余命を伝えるだけでは、さらなる苦痛を与えるだけであろう。説明をしておいた、という何かあったときの責任転嫁に過ぎない。なせ伝えるのか。それは「死」を見つめることにより今ある「生」を輝かせるためである。生きていることを大事にするための告知と言える。「告知をしなければ、知らなくて済んだ。そうしたら自由気ままに生きれることが出来た」なんていうことは全くの妄想に過ぎない。日々変わっていく自分の体を一番知っているのは患者自身なのだ。それを隠すことは、医療者・家族との溝を益々深めるだけになり、患者を孤独にし、辛さが増していく。一人たりとも同じ説明で済むことはない。個々の考え方・価値観を最大限尊重しつつ適切で丁寧な説明が求められている。